2013年03月11日
あれから2年
あの震災から今日で2年経つ。
自分は、遅ればせながら昨年の春に現地を訪れた。
一年経過した、その状況にすら愕然としたものである。
映像でみるその破壊力にも圧倒されたが、その爪痕の実際の状況は、町ごと消え去ってしまった事への悲哀に満ちていた。消えたのは、建物だけでなく人の生活そのものだったんだと、現地を見て理解した。そして、人間のある意味での力の無さを感じたものである。
更にあれから1年経つ・・・・状況はどうなったのだろうか?
人々の生活に何か変化はあったのだろうか?
政治・経済も含め、日本の国自体が自信をなくし、どん底の時期にあの震災が起きた。政(まつりごと)の重要性・為政者の重要性が、こんなにも大事なんだと実感したここ数年であったが、経営も同じであり、トップが暗愚で度胸が無く、ネガティブだと会社そのものが沈鬱で、夢のない暗い暗渠の中にいる状態に成り果てる。
東北の現実は日本の現実である。震災後は我が社も艱難辛苦の連続だった。計画停電・納品の長期ストップ・売上の減少(実際は売上が消えた)等々・・・増えたのは負債のみ。でも、どっこい生きているぞ!
昨年の東北の旅で、一番の収穫は雄勝町のスレートの話であろう。震災時に、津波で流されながらもかろうじて残ったスレートを、生き残ったその会社の社長・社員がかき集め、今は東京駅の屋根に燦然と輝いている。実はこの話、松島の瑞巌寺の隣にある、円通院のガイドをしてくれていた、色川さんという方に聞いたのですが、後日、新聞に載っていたときには感慨深かった。その出会いが無ければ、俺は一生その件には気づきもしなかったし、関心も無かったろう。人の縁というのは必然なのである。
いろいろあったけど、景気回復・日本復活の橋頭堡と捉え、今後も前向きに頑張ります。
2011.3.11 亡くなられた同胞に・・・拝
自分は、遅ればせながら昨年の春に現地を訪れた。
一年経過した、その状況にすら愕然としたものである。
映像でみるその破壊力にも圧倒されたが、その爪痕の実際の状況は、町ごと消え去ってしまった事への悲哀に満ちていた。消えたのは、建物だけでなく人の生活そのものだったんだと、現地を見て理解した。そして、人間のある意味での力の無さを感じたものである。
更にあれから1年経つ・・・・状況はどうなったのだろうか?
人々の生活に何か変化はあったのだろうか?
政治・経済も含め、日本の国自体が自信をなくし、どん底の時期にあの震災が起きた。政(まつりごと)の重要性・為政者の重要性が、こんなにも大事なんだと実感したここ数年であったが、経営も同じであり、トップが暗愚で度胸が無く、ネガティブだと会社そのものが沈鬱で、夢のない暗い暗渠の中にいる状態に成り果てる。
東北の現実は日本の現実である。震災後は我が社も艱難辛苦の連続だった。計画停電・納品の長期ストップ・売上の減少(実際は売上が消えた)等々・・・増えたのは負債のみ。でも、どっこい生きているぞ!
昨年の東北の旅で、一番の収穫は雄勝町のスレートの話であろう。震災時に、津波で流されながらもかろうじて残ったスレートを、生き残ったその会社の社長・社員がかき集め、今は東京駅の屋根に燦然と輝いている。実はこの話、松島の瑞巌寺の隣にある、円通院のガイドをしてくれていた、色川さんという方に聞いたのですが、後日、新聞に載っていたときには感慨深かった。その出会いが無ければ、俺は一生その件には気づきもしなかったし、関心も無かったろう。人の縁というのは必然なのである。
いろいろあったけど、景気回復・日本復活の橋頭堡と捉え、今後も前向きに頑張ります。
2011.3.11 亡くなられた同胞に・・・拝
Posted by スポット屋 taka at 12:03│Comments(2)
│つぶやき
この記事へのコメント
「復興」にどんな未来図を描き、その未来図に向かって動いているのか、イマイチどころか、完全に分からなくなっている。
失われたインフラの整備すら出来ない状況で、やれメモリアルパークだのメモリアルホールだのとか、復旧の見込みが全く立っていない、というよりかは廃線されるであろう駅前で、商店街を復活させようとか、例の一本松が枯れたのを1億円以上かけて、動物で言うなら剥製にして、それも10年くらいしかもたない、なんてことばかり。
考えてみて欲しいのは、震災前、この地域で言われていたことは、漁業を中心とする一次産業の衰退とそれに伴う人口減少・過疎化の話ばかりだったことを。
言っては悪いが、仮に震災前の状況に戻ったとしても、そこは衰退の一途をたどる一次産業しか働く手段が無い、完全な過疎地域である、ということを。
そこにメモリアルパークを作れば、昭和の時代の賑わいが取り戻せるとでも思っているのだろうか、行政は。
「かつての賑わいを取り戻したい」的なお涙頂戴番組しか、マスゴミはやらないが、大切なのは、もっと別な事項のように思います。
失われたインフラの整備すら出来ない状況で、やれメモリアルパークだのメモリアルホールだのとか、復旧の見込みが全く立っていない、というよりかは廃線されるであろう駅前で、商店街を復活させようとか、例の一本松が枯れたのを1億円以上かけて、動物で言うなら剥製にして、それも10年くらいしかもたない、なんてことばかり。
考えてみて欲しいのは、震災前、この地域で言われていたことは、漁業を中心とする一次産業の衰退とそれに伴う人口減少・過疎化の話ばかりだったことを。
言っては悪いが、仮に震災前の状況に戻ったとしても、そこは衰退の一途をたどる一次産業しか働く手段が無い、完全な過疎地域である、ということを。
そこにメモリアルパークを作れば、昭和の時代の賑わいが取り戻せるとでも思っているのだろうか、行政は。
「かつての賑わいを取り戻したい」的なお涙頂戴番組しか、マスゴミはやらないが、大切なのは、もっと別な事項のように思います。
Posted by ゆで落花生 at 2013年03月11日 16:15
ゆで落花生さん、コメント有難う御座います。
一年経過したあの時点で、電気はない、水はない、瓦礫はそのままの状況に唖然とした事を思い出しました。おそらく、テレビの映像を見ただけですけど、当時と何も変わってはいないと思います。救われないのは、おっしゃっているように、明確なビジョンが無く、希望を見出す発信があまりされていないからだと思います。
歴史を遡れば、蝦夷と呼び、差別していた地域の末裔に対する大和朝廷(現在の政府・官僚)の心胆と思うと理解が出来るような気がします。語弊があるので、あまり公に語るのは憚られるのですが、どうもそんな気がしてなりません。あまりに、神戸の時に比べて動きが緩慢なような気がします。
過疎化であったのは事実ですよね。もし、富士宮に於いても震災に見舞われ、今問題になっている商店街が瓦解し、焼け野原になった場合、どのような対処が出来るのか・・・疑問符ではあります。決して人事ではないような気がしますね。また、新たな商店街を補助金で作るの?それとも・・・・ここで、新たな新規事業を起こすの?この選択は、究極かもしれませんが、想定に入れておかねばなりませんね。震災ばかりでなく人災もありえますが・・・
一年経過したあの時点で、電気はない、水はない、瓦礫はそのままの状況に唖然とした事を思い出しました。おそらく、テレビの映像を見ただけですけど、当時と何も変わってはいないと思います。救われないのは、おっしゃっているように、明確なビジョンが無く、希望を見出す発信があまりされていないからだと思います。
歴史を遡れば、蝦夷と呼び、差別していた地域の末裔に対する大和朝廷(現在の政府・官僚)の心胆と思うと理解が出来るような気がします。語弊があるので、あまり公に語るのは憚られるのですが、どうもそんな気がしてなりません。あまりに、神戸の時に比べて動きが緩慢なような気がします。
過疎化であったのは事実ですよね。もし、富士宮に於いても震災に見舞われ、今問題になっている商店街が瓦解し、焼け野原になった場合、どのような対処が出来るのか・・・疑問符ではあります。決して人事ではないような気がしますね。また、新たな商店街を補助金で作るの?それとも・・・・ここで、新たな新規事業を起こすの?この選択は、究極かもしれませんが、想定に入れておかねばなりませんね。震災ばかりでなく人災もありえますが・・・
Posted by スポット屋 taka at 2013年03月11日 16:36